1987年、北海道札幌市生まれのフラワーアーティスト・清野光。「世界一花を愛せる国を作る」を理念に、札幌市中央区宮ケ丘で花屋『GANON FLORIST』や、花と人との新しい関係性をつくるプロジェクト「HANANINGEN」などを主宰。同時にトップブランドのパーティーの演出や有名建築とのコラボレーションなども手掛け、フラワーアーティスト・作曲家・写真家・建築デザイナー・ブランドオーナーの“五刀流アーティスト”とも称される。清野光はどのような原点・原体験を持ち、花の魅力に目覚め、印象深い交差点を経て、現在に至っているのか。インタビューの前編では、清野光を形成するこれまでを振り返りつつ、クリエイティブの源を探ろう。
パンクロック、引きこもり、木に話しかけるおじさん。
ご出身は札幌で、清野さんの幼少期・青年期には興味深いエピソードがたくさんあるのですが、まず小学生のときは音楽に興味を持ったそうですね。
もともとあまり裕福な家ではなく、親が仕事に行っている間は家でビデオを見る機会が多かったんです。ビデオは音楽系が多くて、それこそ1980年代のグラミー賞とかを観ていたのですが、毎日観ていると途中で飽きてくるじゃないですか。そうしたら逆再生したり、早送りしたりして観ていましたね。マイケル・ジャクソンのムーンウォークも逆再生。スティービー・ワンダーとかプリンスとか、個性の強い時代だったんですよね。
そこから音楽に関しては、パンクロックに目覚めることになると。
音楽が大好きなまま、小学校では友達の家でギターに触れたり、中学校ではアコースティックやクラシックギターを持ったりして。ただ自分の場合、耳がもう洋楽になっていたので、友達とかの間ではゆずとかが流行っていても、自分はボブ・ディラン、ふたりだったらサイモン&ガーファンクルみたいな感じ。頭の中がそういう考え方になっちゃっていて、もうその時点で少しずれていました。それで「自分でもバンドをやってみようかな」って思ったときに、浮かんだのがパンクロック。もしかしたら子供ながらに病んでいたのかもしれないですし、社会に対しての反骨心があったのかもしれないです。
高校生のときに結成したパンクロックのバンドは、最終的に札幌のZepp(ライブハウス)でライブをするぐらいまで人気を集めたそうですね。
いやでも実際はスカスカでした。対バン相手の中には、今では有名なSiMとかもいましたが、自分たちは地元の客集めのような感じで。オムニバスでタワレコにCDを出したり、Zeppでライブしたりっていう過去はありますが、いま振り返ると遊びですね。
ただしその後、心を病んで引きこもりになっていた時期があると。
そうですね。簡単に言うと社会にうまく溶け込めなくて、バンドもやめる必要はないけどやめたんです。そこで青春が一回終わったみたいな感じで、周りの同級生も気づいたらほとんどが就職しているか、大学に進学していて。自分だけ仕事も決まっていないし、バンドもやめてしまったし、何もなくて。どっかでアルバイトしようかと思ったけど、「本当にこれが自分の人生に合っているのかどうか」っていうのがわからなくて。
そこからどんなきっかけで“花”と出会い、目覚めていくのですか?
当時の僕は仕事をしていないし、社会にも溶け込めていないから、たまに誘われて外に出るのがバンド関係で知り合った人との呑みぐらいで。そんなあるとき、朝までススキノで飲んだあとに行った大きな公園で、「木に話しかけるおじさん」がいたんです。
僕は何気なくそのおじさんを見ていたときに、「1本の木でも大切にできる方」なのか、それとも「木しか友達がいないから話しかけている方」なのかと、哲学的に考え始めて。もしも前者であれば心がすごく豊かで素敵だし、自分もそう思える人になりたい。でも後者のように思うのなら、自分がもしかしたら不幸なのかもしれない。そう考えたときに僕は最初、そのおじさんを後者の方で捉えていました。
さらにそこから「そういえば植物って誰が植えてくれているのか」とか、思考が展開していって。病んでいたのですんなり(思考に)入っていけましたし、どんどん入っていった結果、「自然や植物ってすごくないか」と考えるようになったんです。
そこから本格的に花を学ぶために、どのようなアクションを起こしましたか?
まずはフラワー教室で習ってみようと思い、久しぶりに家を出て、外の世界や大人に触れ始めました。そこから札幌にある学校(北海道芸術デザイン専門学校)を見つけて。そこは花だけというよりは、グラフィック芸術の中に花学科が入っているみたいな感じで、働きながら通うという条件で親を説得して行かせてもらえました。
ただ通ってみたら、花のデザイナーがいることや、フローリストとフラワーデザイナーはまったく違うことなどを知って。学校では花の本が見放題だったのですが、読めば読むほど「とんでもない仕事を選んじゃったのかもしれない」って思いました。国の会議や有名アーティストのショーやレセプションなど、大切な場で花が登場している写真だらけだったし、僕はそれまでお花はブーケを作るぐらいのものだと考えていたので。
未知の世界に飛び込んで最初は戸惑いも多かったでしょうが、そこからどのような出来事をきっかけに、今の道へ進んでいく覚悟を決めたのでしょうか?
学校を卒業する年に、東日本大震災がありました。そこでまたパンクロックの精神が出てくるのですが、原発反対運動をやっている好きなバンドの人たちがいたり、メディアで間違った発言をしてしまって叩かれている政治家がいたり。そういうのを見ていたら、自然や植物の話、またはそもそも何をすれば地震が起きないとかの根本的な話をしている人がほとんどいないし、人間レベルの会話が多いなと感じて。だったら自分は地球の原点を学んで、自然や植物を通して、しっかりと説明できる大人になりたいと思いました。
帰国後に花屋をオープン。HANANINGENが発芽。
そこから一念発起、なんと清野さんはカナダへと旅立ちますね。
カナダは世界的に見ても自然に恵まれていて、法律や政治も自然に寄り添っている国。あと現実的に、ワーキングホリデーでそのときに行ける国がカナダぐらいだったんです。お金は全然なかったですが、外で太鼓とかを叩いたらもらえるんじゃないかみたいな安易な考えで、学校を卒業したあとに2・30万円だけ持ってカナダへ行きました。
カナダではバンクーバー北部のリン・キャニオンというところに住み始めたのですが、最初は登山ばっかりしていて、何をしにカナダに来たのかわからないような状態で、ホームレスのようなギリギリのラインで生きていました。ただそのあとに、日本でファッションショーなどのプロデュースに携わっている方の家に住めることになったんです。
その方はイギリス人と結婚してカナダに移住した、オノヨーコさんのような雰囲気のおばあちゃんで、彼女の仕事を手伝う代わりにホームステイ代はいらないよと。そこからまったく知らない世界の、ファッションショーのお手伝いをすることになりました。
先ほどの「木に話しかけるおじさん」も清野さんにとっての“交差点”のように感じますが、カナダでの体験も自身にとっての印象深い経験でしたか?
そうですね。花とは関係ない部分で、モデルの服を用意したり、ヘアメイクを探したり、いきなりよく分からない世界に入っちゃって。でも「空間作り」という点においては、今の自分の仕事と繋がっていて、勉強になることは多かったですね。花は空間を構成するひとつの要素で、椅子も、テーブルも、DJも大事。あとはコンセプトで出演するモデルの人種を変えることなども知りました。でもけっこう無茶ぶりも多かったですし、とにかくやらないと終わらないから、その中でなんとか学んでいた感じですね。あと花の勉強もちゃんとしないとなっていうことで、ダウンタウンの花屋でも働きました。
カナダでの修行期間を経て、帰国後の2013年に清野さんの地元・札幌市の中央区宮ケ丘で、自身の花屋『GANON FLORIST』をオープンしますね。
実際、カナダにいたのは1年3ヵ月とか。単純にビザ申請とかが面倒になってしまって、最後はもういいかなみたいな感じで。向こうの人たちからはずっといてほしいみたいなことも言ってもらったのですが、自分の中で「花を伝える」とか「自然を伝える」というコンセプトがすでにあったので、そういうお店をやりたいと思って帰国しました。
そこから1年間くらいは、オープンに向けての準備。花屋を開いたらギフトの注文が始まるだろうし、それはもう家でもできるよなと思って、実家の部屋にビニールシートを敷いてブーケとかを作っていました。ただ自分はクルマの運転が大っ嫌いなので、ぐるぐる巻きにした2メートルぐらいの枝とかを地下鉄で運んだりして。まったく利益にならない、いま思えばなんのためにやっていたのかと思う迷走の時期でしたね。
そんな期間を経て、2013年の11月に店をオープンしました。ただ、ちょっと奇抜な花屋さんを作ってしまって。スタッフみんな全身黒ずくめだし、場所も北海道神宮の目の前の何かを買いに来る空気感ではないエリア。人通りもないし、そもそも入るのが怖いって言われるようなお店で、正直やっちまったなっていうスタートです。
「世界一花を愛せる国を作る」というコンセプトはそのときから?
お店のホームページ上で載せていましたし、フェイスブックとかの宣伝でも使っていました。当時、花屋をやりながら脳科学も勉強し始めたのですが、脳科学的に“世界一”をつけると人は忘れないっていうのもあって。いま思うと本当にかわいらしいというか、「国」を作るってすごい表現ですよね。最近は自分ではあまり言わないですが、でも結果的にメディアとかいろいろな場面で、自分の枕詞として使っていただいています。
店をオープンしてしばらくすると、植物を使った平和を伝える作品とともに、頭に生花を飾って写真を撮るプロジェクト「HANANINGEN」がスタートします。
HANANINGEN的な作品は、カナダにいるときから師匠の無茶ぶりでやっていたので、作る技術はありました。ただそれが日本で商売になるとか、人に何かを伝えられるとはまったく思っていなかったんです。ウェディングのときに髪に花を飾る“ヘアード”とか“フラワークラウン”などはもともとありましたが、その発展が花と人間を融合させた新しいアートの形であるHANANINGEN。お花を好きになってもらいたいっていうコンセプトのわりに、尖っていて入りたくないって言われる店を作っていたので、まずは一輪の花でも好きになってもらいたいという想いから、HANANINGENをスタートさせました。
HANANINGENは2・3ヵ月で予約が1200人待ちの状態に。当時はフェイスブックが流行ったタイミングで、HANANINGENで“発芽”した方はプロフィール写真を1ヵ月変えないでほしいというルールを設けていたところ、瞬く間に札幌中の女性がHANANINGENに。現時点で、国内外で5万人以上がHANANINGENで“発芽”しているという。インタビューの後編では、清野光のパーソナルな部分にフィーチャー。ライフスタイル・インスピレーション・ファッションなどから、思い描く未来の姿まで迫っていく。
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Photo:Ryoma Kawakami
Interview&Text:ラスカル(NaNo.works)
HIKARU SEINO
現在、ロサンゼルスと日本を拠点に活動し、現代のフラワーデザインの最前線で活躍している日本人フローリスト。その斬新でエレガントなスタイルは国内外で高く評価され、ウェディング、イベントデコレーション、建築プロジェクト、プロデュース、脳科学など、多岐にわたるクリエイティブなサービスを提供。その卓越した技術と創造力は、多くの国際的な著名人に認められている。彼のデザインは、世界のラグジュアリーホテルや世界的なファッションブランドとのコラボレーションを通じて多くの人々に紹介されており、ブランドのイベントやショールームのフラワーデコレーションも担当し、その繊細で洗練されたデザインが高く評価されている。