映像・音声・演技のすべてをAIのみで制作した長編映画『マチルダ 悪魔の遺伝子』が、2025年12月19日より日本各地で劇場公開された。その監督を務めたのが、映画制作もAI技術もまったくの素人だった遠藤久美子。あるきっかけから6歳で「宇宙に行く」と決めた遠藤は、のちに大事故で4年におよぶ入院生活と幾度もの手術を経験するも、それらを乗り越えて直感の赴くままに自らの人生を選択してきた。前編ではそんな彼女の原点や転機を振り返りながら、「多動な才能」を紐解いていく。
6歳で決めた「宇宙に行く」という最終目標
遠藤さんは長野県出身とのことですが、幼少期はどんな環境で育ちましたか?
私は長野県の山奥の、自然豊かな田舎で育ちました。クリエイティブなことに関しては、自分の目の前にあって興味を持ったことをこれまでもずっとやってきたので、「さあクリエイティブをやろう」とか「ビジネスをやろう」とか、そういう風にカテゴライズした形で何かに取り組もうと思ったことはほとんどなくて。自分でもそういう境目がはっきりわからない感じで生きてきたと思いますね。
小さいころになりたかった職業や、抱いていた夢があれば教えてください。
6歳のときに宇宙万博があって、その展示を見て、絶対に私は「宇宙に行く」って決めました。子供のときに憧れても途中で夢が変わることは多いと思いますが、私は1回もブレずにこの歳まで来たので、宇宙万博はすごくいい転機だったのかなと。これまで会社を立ち上げたり、映画を作ったりしましたけど、私は最終的に「宇宙に行きたい人」です。

高校時代に交通事故に遭われて、長い期間にわたって入院していたそうですね。
高校3年のときに大きな交通事故に遭って、そこから4年間は病院にいました。20回以上の手術をしましたが、なんとかオペとリハビリを繰り返して、22歳のときにやっと退院。そこからすぐ、飛行機の免許を取りにカリフォルニアへ行きました。
飛行機の免許を取ろうと思ったのは宇宙に行きたいからですが、宇宙飛行士ってごくわずかな天才ができる仕事で、私がその部類じゃないということは、さすがに小学生にもなれば気づく。でもせめて近いところまでは飛びたいと思って飛行機の免許を取りました。そのときは飛べる限界が7700フィート。それでも自分にとっては宇宙に一番近づいたということで、ひとまず気は落ち着きました。
壮絶な事故のあとということで、家族や友人などから反対されませんでしたか?
4年かけてやっと治ったのに、今度は宇宙に行きたいから飛行機に乗るとか、もう完全にどうかしてるよねって、親戚中から反対というか理解されなくて。でも自分としては田舎の細い道で死んでいたかもしれないと思ったら、「生きているうちにやりたいことやろう!」と逆にスイッチが入りました。
1日1日がおまけの人生でやりたいことをやる
アメリカから帰国後は、飛行機とは関係のない仕事を東京で始めたのですか?
まず私たちが中高のときはバブルで、学生ながらに「時給で仕事をする時期じゃないな」というのは感じていました。そういう意味で高校生のときから、自営業的な感覚はすでにあったのかなという気はします。あとやっぱり飛行機で体験した感動がものすごくて、それをアウトプットする方法として、突然「歌おう!」と思い立ちました。ただ歌がもともとうまいわけでもないし、クリエイティブを音楽から始めようと思ったとか、そんな高尚なロジックがあったわけでもなくて。
そうなって初めて「じゃあ東京だよね」ってことで上京しましたが、そのときにすでに23歳で、歌手としてデビューするのはもう10年遅い。だから逆算して1年でデビューできなかったら、やめると決めてスタートしました。ただしそうやっている間にメジャー契約も決まってデビューすることに。歌の経験があるわけではないので自分の歌は全然良くないけれど、CM制作会社の方から「声がCM向きだと思うから、アーティスト活動とは別にスタジオミュージシャンをやってみない?」と言われて。そこから経歴としてはもう20年くらいやっています。
でも仕事としてはボーカル業だけだと、宇宙に行くお金は貯まらない。だからちゃんとビジネスしないとなってことで、飲食店や化粧品、広告の仕事など、さまざまな分野に携わり、近年はテック系にシフトしたりもしながらビジネススキルを磨いてきました。でもそれと並行して歌の仕事はずっとしていたし、途中でVIP専門のコンシェルジュ会社もやっていましたね。
私にとって1日1日がおまけの人生というか、そもそも事故で終わっていたかもしれない人生なので、怖いものがない。「私がやりたいことをやる人生だ!」というふうに進んできましたし、その気持ちのままに脈絡なくやりたいことをやってきたので、幅広い経歴になっているのだと思います。

娘と移住したバルセロナで降りてきた瞬間
現在は娘さんとバルセロナで暮らしていますね。そのきっかけは?
バルセロナはもともと私がガウディの大ファンで、まず移住する前に10回ぐらい行きました。その中で娘が6歳になるときに学校を1年間休ませて、うちの母も入れて3世代で世界旅行をしたときにバルセロナも行って。娘はハワイ生まれだけど、すごくバルセロナを気に入ったんです。
「ママ、私はバルセロナに住む!」って言い出して、いいセンスと思って大賛成してビザを調べたら、ちょうど不動産投資ビザがあって。バルセロナはヨーロッパの中では物価が安い方だし、カラッとした気候は健康面でもすごく良くて、呼ばれるようにスルスルっとバルセロナ移住が決まりました。ただし、思い切って移住した7ヵ月後、コロナ禍に。いきなり知らない街でロックダウンしました。
なんと。コロナ禍でのバルセロナの暮らしはどのような状況でしたか?
バルセロナって地方都市で小さな街だけど、ロックダウンになったときにドローンが街の中をパトロールしているのが映画みたいで未来的でした。一方でDJがベランダにブースを出して音楽をガンガンかけたり、トランペットを吹く人がいたりして、みんなで明るく乗り切ろうとしていましたね。
あと「従事者に拍手を!」と言って、当時は毎日夜8時になると住人がベランダやテラスに出て拍手をしたり、声を上げたりして、医療従事者にみんなでエールを送るのがとてもカッコ良かった。私はバルセロナでの暮らしがすごく合っていると感じますし、5年経ったいまも楽しく暮らせています。

そしてロックダウンのときに、映画に繋がる“降りてきた”瞬間があったそうですね。
まず物語が最初に自分に降りてきたのは2000年ぐらいで、当時は事故後の治療がすごくきつくて、薬をこれでもかってぐらい飲んでいた時期。そんなときに急に降りてきた物語で、朦朧としながら殴り書きしたスケッチブックをいまだに持っています。本当に2、3秒の間に、データをフォルダごとドーンと受け取った感じ。別に私は霊能力もないし、見える人とか言うつもりもまったくないですけど、たまたまそのときはそういう受け取り方をしたのが、『マチルダ 悪魔の遺伝子』になる物語です。
それがもう1回ドンと降りてきたのが2020年。やっぱりこれを形にしなきゃと思って仲間に相談しながら、物語を書くことや映像を撮ることをやりだしたときに、運がいいことにAIがあった。AIがなかったら、よほどのスキルを持っていないと物語は形にならない。でもその点、AIは自分が見えたビジョンを限りなく近い形で映像にすることができると知ったのが、作品のスタートでした。

仕事もプライベートも。遠藤久美子を取り巻く出来事は、一見するとジャンルも文脈もバラバラに見える。しかし話を聞くほどに浮かび上がってくるのは、多動で直感的で止まることを知らない彼女の軌跡は、2000年と2020年という2度の“降りてきた瞬間”を経て、やがてある「作品」へと収束していく。後編では20年以上温め続けた構想と、AIという新たな表現手法を得て生まれた長編映画『マチルダ 悪魔の遺伝子』に至るまでの経緯や制作過程、そして込めた想いや物語の核心に迫っていく。
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映画オフィシャルサイト(上映情報はこちらから)
1月23日(金)から1週間、ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場でも上映決定
詳細は劇場公式サイトから
Photo:後藤 薫
Interview&Text:ラスカル(NaNo.works)
遠藤 久美子
長野県出身。TVCM等で1,000本超の歌唱・語りに参加しつつ、コンサル・PR会社の経営など、さまざまな事業を横断。2025年、俳優・声優・撮影を使わず全編生成AIによる映画「マチルダ・悪魔の遺伝子」を制作(監督・原案・脚本)。AIFJ2025特別上映や海外映画祭招待を経て劇場公開。スペイン・バルセロナ在住
