00年代のアイコン・MANONとは?アーティストの“原体験”と“交差点”。
福岡県出身、2002年生まれのMANON。幼少期から地元・福岡でモデルとしてさまざまな媒体に露出し、上京後は本格的にアーティスト活動をスタート。dodo、LEX のような若きラッパーから、藤原ヒロシなどの大御所プロデューサー、Kero Kero Bonitoといった海外アーティストまで、数々のコラボレーションで話題を呼んでいる。モデルとしてはジャンルレスなファッションを着こなし、アーティストとしては柔軟かつ自分らしく音楽を表現するMANONが、00年代を中心に多くの支持を得ているのはなぜか? インタビューの前編では、活動のきっかけやアーティストとしての原体験、影響を受けた人、印象深い“交差点”などから彼女の魅力に迫った。
MANONの現在に至る、クリエイティブの原点
現在はどのような活動をメインにされていますか?
今は音楽活動をメインにやっていて、自分で歌うし、曲や歌詞も考えて作るので、メディアに出るときは“アーティスト”として紹介していただくことが多いです。でも音楽だけの表現にはとらわれずに、モデルであったり、少し前には女優としてNHKのドラマに出させてもらったりと、さまざまなことにチャレンジしています。
もともとのスタートであるモデルを始めたきっかけを教えてください。
きっかけは母が福岡でやっていたセレクトショップで、私が生まれたときに「かわいい服を着せたい」という理由で始めたそうなのですが、子供服や輸入雑貨を扱っていました。そのセレクトショップの看板娘兼モデルとして、母がセレクトした洋服を着て、父が写真を撮影するECサイトモデルみたいなことをしたのが最初です。でも自分としてはそれを仕事としてはとらえていなくて、親の仕事の手伝いのような感じでした。
でもそれが今になって、すごく繋がってるんだなって思います。しかもそのときから自分のことを知ってくださっている方もいて、「お母様のお店のサイトで見ていた子がこんな大きくなったんですね」みたいなコメントをいただくことも少なからずあるので、そういうときはタイムカプセルを掘り出したときの気分みたいになりますね。
自主的にモデルをやりたいと思い始めたのはいつからですか?
小学生になってからです。きゃりーぱみゅぱみゅさんが高校生のときに、『Zipper』や『KERA』のモデルをやりながら自分のライフスタイルをブログで発信しているのを見て、「学校に通いながらモデル」みたいな二面性に憧れました。そこからまず、自分は携帯を持っていなかったので(ニンテンドー)DSで撮った写真をパソコンに取り込んで、“学校コーデ”のようなブログを始めて。そうしたら少しずつ読者が増えて、仕事にしたいとはまだ思ってなかったけど、自分に合っているかもと思いました。
その少しあとに母の知人にSNSに詳しい方がいて、「
ファッションや音楽などで影響を受けた人はいますか?
両親の影響は大きいと思います。母からは主にファッションの影響が大きくて、一方で父は音楽が好きで、クルマでいろいろな曲を流していました。父はフランス人だったのでヨーロッパにルーツがあって、Daft PunkやJustice、あとはGorillazといったヨーロッパの曲をよく聴いていて、今もたまに聴くとそのときのことを思い出します。
音楽で言うと、母はデヴィッド・ボウイが大好きです。ボウイのベスト盤アルバムでDVD付きのディスクをテレビでよく流していて、私は「Life On Mars?」っていう曲のミュージック・ビデオの、スカイブルーのスーツとアイシャドウ、オレンジのヘアーのヴィジュアルがすごい好きで。それを私は自由帳に描いていたみたいなので、やっぱり母の影響は大きいなと思いますし、今でも自分のルーツとして残っています。
コロナ禍での上京。発見した自らの強みと破った殻。
アーティストとして活動を始めたきっかけを教えてください。
2020年に上京してすぐコロナ禍になってしまったのですが、家にいる時間が多いからこそ始められたこともあって、そのひとつがTikTokです。高校生のときは流行りに乗りたくない天邪鬼な性格からTikTokはやっていませんでしたが、コロナ禍は表現ができない状況だったのもあって家の中でショートミュージックビデオみたいなものを作ってUPしていたら、フォロワーが増えて、再生回数も増えていって。「そうだ私、動画を作るのが好きだったな」と思えたことは、自分にとっての発見でした。
あとコロナ禍のときに、タイプビートなどを聴いて、自分で歌詞を書くことを始めました。リリースする予定はなかったですが、曲をちょっとずつ自分で作ろうというタイミングで、(プロデューサー&ビートメイカーの)KMさんからトラックをいただいて。自分で歌詞やメロディを作っていくことの楽しさを知れたのがもうひとつの発見です。
これまでの活動の中でのさまざまな出会いやコラボレーションがあったかと思いますが、その中で特に印象に残っている“交差点”を教えてください。
それこそコロナ禍のコミュニケーションを、かつて一番重きを置いていたSNSにフォーカスを当てて、自分が出した曲をとにかくいろいろなアーティストに送りまくりました。ポスト・マローンやレディー・ガガなど、もう雲の上の人にも送っていて、その中でsix impalaという好きなアーティストから返事がありました。
彼らは6人組で顔を出していないので、6人のうちの誰から返事が来たのかもよくわからなかったですが、そこから1度も打ち合わせなどもすることなく、DMだけで曲がすべて完結して、“TROLL ME”がリリースされました。それはコロナ禍というタイミングだったからこそできたコラボでしたし、しかもその曲が激しいミクスチャー系のサウンドだったので、閉じ込められた状況だからこそ内なるパンクな精神が現れた曲ができたと思います。
「交差」する他者との関わりが自身に与えた影響はありますか?
高校生のときから上京したてまで、ライブに対して苦手意識があって。歌うのは好きだけど、ライブは何かが掴めていない感覚が自分の中でありました。ただその殻を破れた瞬間としてすごく記憶に残っているのが、大阪の名村造船所跡地という場所で、YAGIとFULLHOUSEのコラボで開催されたナイトイベントです。
そのときの私はたしか19歳で、ナイトイベントにギリギリ出られる歳になっていて。それまでは出れらないし、好きなアーティストさんがナイトイベントばかりに出ていて見に行けないし、雰囲気なども体感したことがない状態でした。でもそのときは、普段は真っ正面から入れないイベントに出演者として出られるっていうことがうれしかったですし、イベントの出演者さんもHeavenのみんなとか、ジャンメン(JNKMN)さん、RAU DEFさん、Qiezi Maboさんなどで、各方面で存在感を放つ面々とご一緒させていただいたのはとても思い出深いです。
特別な日にしたかったので新曲を3曲用意して、その中の“GALCHAN MODE”が個人的にMANON第2章の幕開け的な曲で、ハイパーポップというジャンルに初めてトライした曲でした。ステージ直前まで緊張と慣れない環境で「やばい、やばい」と焦りを感じていましたが、新曲でお客さんが超盛り上がってくれて、その雰囲気が乗り移って、自分も今までやったことないテンションのMCを急に始めたりもして。みんな“GALCHAN MODE”を一度も聴いたことないのに、サビで歌わずにパラパラを全面集中で踊ってくれました。
その光景を見てライブでお客さんとひとつになる感動を覚えましたし、その日は今でも忘れられない、最高のパフォーマンスだと思っています。そのイベントで自分は殻が破れましたし、みんなに100%の自分を表現できて、今ではどのようなフロアでもお客さんとひとつになって楽しめるパフォーマンスづくりを目指しています。
幼少期からモデルとしてのキャリアをスタートし、上京してアーティストとしての才能を開花させているMANON。その背景には、両親から受けたファッション・音楽の影響や上京後のコロナ禍での葛藤などをポジティブかつ柔軟に吸収し、自由に表現するMANONというアーティストの稀有な才能があった。インタビューの後編では、「アーティスト・MANONのエッセンス」と題して、ハマっていることやファッション&メイクのこだわり、インスピレーションの源などから、彼女の「自分らしさ」に迫っていく。
Photo:Ryoma Kawakami
Interview&Text:ラスカル(NaNo.works)
MANON
福岡県出身の23歳。dodo、LEXといった新鋭アーティストから藤原ヒロシ、ケロ・ケロ・ボニトまで多岐のコラボも話題になってきた。 アーティスト活動、ストリートからモードまで着こなすモデル活動と、音楽・ファッションを横断した活躍で注目を集めている。現在は、アーティスト×クリエイティブコレクティブ「bala」でも活動中。 2025年5月にはDigital Single「違うタイプ」をリリース。 TOY’S FACTORYからメジャーデビューを果たしたSATOHの Linna Figg プロデュースを担当。 Hyperpopの雰囲気を感じつつも、ミクスチャー・ロックの疾走感と“ギャル”の情緒が混ざり合う、新たなMANON像が描き出された。恋に落ちた相手は、自分とは“違うタイプ”。だけど、その違いにこそ惹かれてしまう̶̶。そんな複雑でドラマティックな恋心を、甘くてスリリングなビートと共に歌い上げた、MANONのネクスト・アンセム。

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